サブカル

【読書感想文】駈込み訴え/太宰治著

bannermisaki

【読書感想文】駈込み訴え/太宰治著




本日のモデルは犬飼由加里さんです!

そんなこんなで皆様ごきげんよう、中村です。
本日は読書感想文!多分暫くは読書感想文!!記念すべき私の第一回は太宰治氏の『駈込み訴え』です。
犬飼さんの持っている本の中に収録されています。

「駈込み訴え」(かけこみうったえ)は、1940年に雑誌「中央公論」昭和15年2月号に発表された太宰治の短篇小説である。

イスカリオテのユダを主人公とした視点で、イエス・キリストに対してどういう感情を持っていたのかを述べるという形式を取っている。イエスと同じ年でありながら、どうしてイエスは主人で自分は召使いなのかという疑問に始まる。ユダはイエス・キリストをイスラエルの王とは認めていないが、彼の美しさは高く評価している。その一方でイエスの発言の中に底意地の悪さを見出して嫌悪感を抱く。いっそ今の内に彼を殺害してしまおうと考えるが、実行せずに金銭目的で彼を売り付けるという決意を固めた。なお、ユダがどこに駈け込んで誰に訴えかけたのかは、明らかにされない。

(ウィキペディアより引用)

ざっくり説明すると「イエス様美しい!愛してる!!愛しているからイエスの為に頑張る!!!でもイエス様はちっとも自分を省みてくれない!!!!もう頑張れない!!!!!殺す!!!!!!」って話です。大体合ってる。

もっと詳しく内容を知りたい方はこちらに全文掲載されているので是非!
このサイトでは、著作権保護期間の終わった作品や著者・訳者自らが公開に同意したものを掲載しております。



さてさて。
ここから先は一方通行だでは無く、ここから先は私の勝手な解釈と感想文になります。
思いついたままの書き殴りなので、矛盾に気付いても怒らないでね!!
ごちゃごちゃ書いてるので途中で「あ”?」と思ったらひとまず犬飼さんの写真を見て落ち着いてください。浄化浄化。




この『駈込み訴え』という物語ですが、ユダの心情がころころ変わります。
イエス様愛してる!イエス様憎い!一緒に暮らしたい!私の手で殺す!でもやっぱり愛してる!

ころころ変わります。

ころころ変わっていった結果、結局は「イエス様殺す」で落ち着くのですが、
では何故『愛』というプラスの感情よりも『殺意』というマイナスの感情が勝ってしまったのでしょうか?
今回はそれを考えるにあたり、”文章の書き方”へと注目してみたいと思います。



先程の全文掲載を見てみた方、改行が少なくて読み辛いとは思いませんでしたか?
しかしあれ、実は本に掲載されているものを忠実に再現しています。印刷版の同作にもほぼ改行はありません。

では逆に、改行を行っているのはどんな時なのでしょうか?
因みに改行は下記の二箇所だけで、あとは場面が変わろうと回想シーンが終わろうと一切改行をしていません。

申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。

<改行>

はい、はい。落ちついて申し上げます。あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の仇です。


もはや、あの人の罪は、まぬかれぬ。必ず十字架。それにきまった。

<改行>

祭司長や民の長老たちが、大祭司カヤパの中庭にこっそり集って、あの人を殺すことを決議したとか、私はそれを、きのう町の物売りから聞きました。

(『駈込み訴え』より引用)

どちらも、ユダがイエス様の”死”を明確に意識している場面です。
改行を無くす事によって、
ユダが興奮している様子や考えの纏まり切っていない様子・言葉を捲し立てている様子を表しているのだと仮定するならば。
改行は多少なりともユダの心が落ち着いている様子・考えが纏まっている様子を表す事になります。

=『ユダの心が落ち着くのはイエス様の”死”を強く意識した時』です。

一つ目の改行はイエス様を殺す為に彼の御方の居場所を告発する時なので、
もう既にユダの中でイエス様を殺す事は決定しています。
ですので二つ目の改行の時(回想なので、一つ目の改行よりも過去の話)が、
“ユダが明確にイエス様を殺す事を決めた・マイナスの感情(殺意)がプラスの感情(愛)に勝ってしまった箇所”
に当たるのでは無いでしょうか?

改行の直前にある『もはや、あの人の罪は、まぬかれぬ。必ず十字架。それにきまった。』
この一文がユダの明確なる殺意の原因だと思われますが、それでは『あの人の罪』とは一体なんなのでしょうか?

…なんか長くなりそうなので、私なりの結論だけ書きますね。
該当箇所の、5行くらい前にある『私はその姿を薄汚くさえ思いました。』これなんじゃないかなぁと思います。
ユダは今まで、どんなにイエス様を憎く思っても『薄汚い』と思う事は無かったんです。
ユダがイエス様を愛する理由は”美しい”から。そしてその”美しさ”を、狂気とも感じられる程に愛していました。
それが汚されるのは、例え相手がイエス様本人であろうともユダにとっては許しがたい”罪”なのではないでしょうか。




さて、改行以外で一箇所注目したい箇所があります。
それは、物語の最後で登場する『小鳥』です。

ああ、小鳥が啼いて、うるさい。今夜はどうしてこんなに夜鳥の声が耳につくのでしょう。私がここへ駈け込む途中の森でも、小鳥がピイチク啼いて居りました。夜に囀る小鳥は、めずらしい。私は子供のような好奇心でもって、その小鳥の正体を一目見たいと思いました。立ちどまって首をかしげ、樹々の梢をすかして見ました。

<中略>

ああ、小鳥の声が、うるさい。耳についてうるさい。どうして、こんなに小鳥が騒ぎまわっているのだろう。ピイチクピイチク、何を騒いでいるのでしょう。

(『駈込み訴え』より引用)

この『小鳥』について考える際に、注目したいのは以下の三点。



・ユダは結局小鳥の姿を見ておらず、声だけを聞いている
・小鳥の姿を「見たい」と思う一方で、小鳥の声を「うるさい」と感じている
・小鳥が啼いているのは、改行よりも後



改行よりも後、という事は、小鳥が啼いている時点で既にユダの『殺意』は『愛』を上回っています。
そして今までのユダの話はあくまで回想なので、イエス様への愛はイエス様を薄汚いと感じているユダが語っていました。
つまり、『愛』を語りつつももうそこに『愛』は存在しないのです。



・もう既に実体が存在せず、言葉だけで表現される『愛』
・声だけが響き、姿を見せない『小鳥』



この類似性から、『小鳥』はユダのイエスに対する愛の象徴である、と私は考えました。

“小鳥の姿を「見たい」と思う一方で、小鳥の声を「うるさい」と感じている”のは、
イエス様への愛という感情を煩わしく思いつつも未練が残っている様子を表しているのではないでしょうか?
小鳥を見たがっているのは”子供のような好奇心”を持つユダなので、
イエスに殺意を抱く大人のユダの中に、まだ愛を求めていた昔のユダ(子供のユダ)が僅かながら残されていたのかもしれません。
小鳥を見たいのは愛を求める子供のユダで、小鳥を煩わしく思うのは愛を失った大人のユダ。
結局小鳥の姿は見えないので、子供のユダがいくら未練を持とうともその感情を取り戻す事は出来ないのでしょうが。



最後に解釈では無く感想っぽい事も少し。
『駈込み訴え』の、最後の締めの文章が大好きです。

おや、そのお金は? 私に下さるのですか、あの、私に、三十銀。なる程、はははは。いや、お断り申しましょう。殴られぬうちに、その金ひっこめたらいいでしょう。金が欲しくて訴え出たのでは無いんだ。ひっこめろ! いいえ、ごめんなさい、いただきましょう。そうだ、私は商人だったのだ。金銭ゆえに、私は優美なあの人から、いつも軽蔑されて来たのだっけ。いただきましょう。私は所詮、商人だ。いやしめられている金銭で、あの人に見事、復讐してやるのだ。これが私に、一ばんふさわしい復讐の手段だ。ざまあみろ! 銀三十で、あいつは売られる。私は、ちっとも泣いてやしない。私は、あの人を愛していない。はじめから、みじんも愛していなかった。はい、旦那さま。私は嘘ばかり申し上げました。私は、金が欲しさにあの人について歩いていたのです。おお、それにちがい無い。あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素速く寝返りを打ったのだ。金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。

(『駈込み訴え』より引用)

そして回想で、ユダはこの様に語って居ました。

それどころか私は、よっぽど高い趣味家なのです。私はあの人を、美しい人だと思っている。私から見れば、子供のように慾が無く、私が日々のパンを得るために、お金をせっせと貯めたっても、すぐにそれを一厘残さず、むだな事に使わせてしまって。けれども私は、それを恨みに思いません。あの人は美しい人なのだ。私は、もともと貧しい商人ではありますが、それでも精神家というものを理解していると思っています。だから、あの人が、私の辛苦して貯めて置いた粒々の小金を、どんなに馬鹿らしくむだ使いしても、私は、なんとも思いません。

(『駈込み訴え』より引用)

イエス様の為ならばお金に執着を見せなかったユダが、イエス様をお金で売るのです。
美しい人を愛する趣味家としての自分を殺し、イエス様が嫌う商人のユダとして生きる事を自ら選ぶユダの心情にぞくぞくします。



以上、『駈込み訴え』の自己解釈と感想文でした!
昔の文学は少し見方を変えると解釈が全く変わるので面白いです。
一日経ってこの文章を読み返していますが、もう既に変わってきています\(^O^)/

そして登場人物への自己投影もしやすいですね。
ユダに投影するならば、相手が好きだから一生懸命尽くしたり、一回嫌いになると嫌なところばかり目に付いてしまったり。
イエス様に投影するならば、自分にその気が無くとも相手に「出来もしない事ばかり言う」「自分を良く見せる事ばかりを考えている」「自分の考えだけを押し付け強要する」と思われてしまったり。

「自分はイエスではないな。」

そう思う人が一番危ないかもしれませんよ!
ユダの愛が殺意に変わる前に、一度自分にとってのユダとその関わり方を考えてみると良いかもしれません。

友達にも社畜を教えよう

fresh-baner

Return Top