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【読書感想文】ヴィヨンの妻/太宰治著

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【読書感想文】ヴィヨンの妻/太宰治著



月曜日は読書感想文のコーナーです。
皆様ごきげんよう、中村です。
本日の読書感想文は、太宰治氏の『ヴィヨンの妻』です。

『ヴィヨンの妻』(ヴィヨンのつま)は、太宰治の短編小説。初出は、筑摩書房から発刊されていた『展望』1947年3月号。1948年に鎌倉書房『戦後文学選』の第4巻として刊行された太宰の作品集『春の枯葉』に他の3篇とともに収録された。また、本作を表題とする新潮文庫が1950年に刊行されている。作品には、中野駅、吉祥寺、小金井、井の頭公園、京橋などの地名がでてくる。小料理屋の女将が東京大空襲に触れる下りもある一方、1946年のクリスマス・イヴから翌日にかけての賑わいも描かれている。


<あらすじ>
作者を髣髴させる、元男爵の次男だという帝大出の詩人の妻「さっちゃん」の視点で、大谷と彼を取り巻く人々の言動が綴られている。さっちゃんは、浅草公園の瓢箪池畔でおでんの屋台を出していた父とふたりで長屋に住んでいた。小金井の家はボロ家で、3人家族の家計は、しばしば熱を出す子供を医者に連れて行きたくても、お金もない有様。その上、大谷は数日も帰ってこないこともしばしば。ある時、大谷は入り浸っている中野駅の小料理屋「椿屋」から運転資金を盗み、やってきた経営者夫婦に大谷は辻褄のあわない言い訳を並べたてる。

(ウィキペディアより引用)

全文読みたい方は青空文庫さんへ。
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とりあえず抜き出し。

こんどは大ぴらに闇酒を仕入れて売っているという、手短かに語ると、そんな身の上の人間なのでございます。


三年間、一銭のお金も払わずに、私どものお酒をほとんどひとりで、飲みほしてしまったのだから、呆れるじゃありませんか


私には、椿屋にお酒を飲みに来ているお客さんがひとり残らず犯罪人ばかりだという事に、気がついてまいりました。
<中略>
立派な身なりの、五十年配の奥さんが、椿屋の勝手口にお酒を売りに来て、一升三百円、とはっきり言いまして、それはいまの相場にしては安いほうですので、おかみさんがすぐに引きとってやりましたが、水酒でした。


「すみません。ああ酔った
と苦しそうに小声で言い、すぐにそのまま式台に寝ころび、私が寝床に引返した時には、もう高い鼾いびきが聞えていました。
そうして、その翌る日のあけがた、私は、あっけなくその男の手にいれられました。


『ヴィヨンの妻』より引用

今回のキーワードは「酒」です。
闇酒・酒の飲み逃げ・水酒詐欺・酒による強姦と、
この物語で「酒」は犯罪と結び付けられて描かれています。
そして、この物語は”私”(さっちゃん)の視点で綴られているので、
酒=犯罪と結び付けているのは”私”です。

しかし”さっちゃん”は、酒に酔った男に強姦された後のシーンでこう綴っています。

その日も私は、うわべは、やはり同じ様に、坊やを背負って、お店の勤めに出かけました。
中野のお店の土間で、夫が、酒のはいったコップをテーブルの上に置いて、ひとりで新聞を読んでいました。コップに午前の陽の光が当って、きれいだと思いました。

『ヴィヨンの妻』より引用

犯罪の象徴である「酒」のはいったコップを、「きれい」だと言っているのです。
その後、さっちゃんと夫の会話はこのように続きます。

「ゆうべは、おいでにならなかったの?」
「来ました。椿屋のさっちゃんの顔を見ないとこのごろ眠れなくなってね、十時すぎにここを覗いてみたら、いましがた帰りましたというのでね」
「それで?」
「泊っちゃいましたよ、ここへ。雨はざんざ降っているし」
「あたしも、こんどから、このお店にずっと泊めてもらう事にしようかしら」
「いいでしょう、それも」
「そうするわ。あの家をいつまでも借りてるのは、意味ないもの」

『ヴィヨンの妻』より引用

あの家とは勿論、”私”と大谷が住んでいた家です。
さっちゃんは、その大谷と共に住んでいた家を借りているのを「意味が無い」と言っているのです。



さて。お気づきでしょうか?
中村はここまで、主人公の事を”私”と”さっちゃん”で書き分けています。
“私”と”さっちゃん”は当然同一人物です。
しかし、同一人物でありながらその性質は全く違う風に描かれています。
軽くまとめるとこんな感じ。

———-
<私>
・夫の帰りを健気に家で待つ、妻としての側面が強い
・酒=犯罪と結び付けている

<さっちゃん>
・椿屋のさっちゃん(働く女性/自立した女性)の側面が強い
・犯罪の象徴である「酒」のはいったコップを、「きれい」だと言っている
・”私”と大谷の住んでいた家を借り続けるのは意味が無いと言っている
———-

家の外で大谷と会う事が殆ど無かった”私”が大谷の妻として存在出来たのは、
大谷が夫として帰ってくる家の中だけでした。
その場所を「意味が無い」と言うのは、妻としての”私”の否定に繋がるのでは無いでしょうか?
その推測を強めるのが、さらにその後の会話。

夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、
「やあ、また僕の悪口を書いている。エピキュリアンのにせ貴族だってさ。こいつは、当っていない。神におびえるエピキュリアン、とでも言ったらよいのに。さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです」
 私は格別うれしくもなく
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
 と言いました。

『ヴィヨンの妻』より引用

大好きであるはずの夫の「君と坊やの為にこんな事をしたんだよ!」という発言を「うれしくもなく」。
もうこの時点で既に、大谷の妻である”私”は死んでしまっていたのではないでしょうか。

“さっちゃん”としての意識が”私”を殺してしまった様な気もしますが、
椿屋の夫妻や強姦した男が”私”では無く”さっちゃん”を必要としていたり、
夫である大谷も”私”を”さっちゃん”と呼び”さっちゃん”を慈しんでいる点から
“私”を殺したのは”さっちゃん”の周囲である様な気もします。



よく人には表と裏の顔があると言う様に、人間には二面性というものが存在します。
“私”と”さっちゃん”は、彼女の二面性を表しているものなのではないでしょうか。
そしてこの話は、夫に依存していた”私”が”さっちゃん”として自立していく姿を描いた物語なのかなと思います。
また、”自立”をするにあたって綺麗事だけでは無く汚い事も容認していかなければならない的な。

“私”は”さっちゃん”として新しい人生を歩み始めましたが、
「さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかった」と言っている夫(大谷)は
妻である”私”と椿屋の”さっちゃん”を混同しており、
“夫”にも”大谷”にも成り切れないで一人置いてけぼりを喰らってしまった様なイメージ。
これもまた、大谷の言う不幸や恐怖の一つでなのでしょうか。




以上、読書感想文でした!!

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